岩場を這い上がる我が子を励まして、強く育てと願う親獅子の頭の上に木の枝が伸びてのっかっている。
子獅子が「親爺、頭は痛くないのか」と心配げに見上げている。
獅子の子落としの図が逆転したかのようだ。
獅子山は船橋の行者海老原得浄のもと、明治三十六年十月(1908)に横浜と船橋の成田山新栄講によって建立された。
彫った石工は、「横浜 工業人 紅葉萬吉 竹腰新太郎」、黒朴(クロボク)を積んだ庭師は「横浜庭師 山田政五郎 岩本新太郎」で、講中の中には翌三十七年五月、本山である成田山新勝寺に獅子山(総門裏参道)を造った「紅葉丑五郎」の名もある。
つまり船橋太神宮と成田山の獅子山は同じ紅葉姓をもつ石工と庭師山田政五郎に依って造られたものなのです。ではなぜ横浜の石工と庭師なのだろうか?
実は行者の海老原得浄師は横浜の野毛山で布教していたようで明治二十一年 (1888)には小田原市の酒匂不動尊(小田原市酒匂3丁目)を開山したと云われています。
その後船橋に布教の場を移したが、講員も職人達も共に活動した。
その成果が二つの獅子山になったのでしょう。
(文・山田敏春/写真・山田)