神田明神(千代田区外神田2-16-2)
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神田明神の狛犬は石像物の傑作で石彫芸術の極みと言ってもよい作品だが、狛犬故にそのような扱いを受けていない。
見る者を圧倒する力強さ、それを可能にした石彫技術の高さ。
稀有の作品は原型師と石彫工が造り上げた奇跡と言ってもよい。
台座には「奉献 昭和八年五月(1933)」「原型 池田勇八」「石材 酒井八右衛門」「石匠 野村保太郎」の銘がある。
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原型の池田勇八は明治19年8月(1886)に香川県に生まれた。
あまり裕福ではなかったが明治36年(1903)に東京の美校(現在の芸大)彫塑科に入学、同級生に朝倉文雄がいる。
勇八は貧乏学生故にモデルを雇えなかったので動物園に行き専ら動物の製作に励んだ。
そこで上野動物園の園長と親しくなり御料牧場や小岩井牧場で馬の研究を始める。
明治40年(1907)卒業すると明治、大正、昭和の天皇乗馬像の製作や宮内庁、岩崎家、三井家の支援を受け「馬の勇八」として名をはせる。
明治43年(1910)に田端の文士村に移り住む。
昭和38年(1963)、77歳で没した。
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初代の酒井八右衛門は駒込肴町(現向ヶ丘1丁目)に住んでいた。
戊辰戦争の折りに旧幕臣達を多数助けた事があり、明治になってその人達が明治政府に返り咲き、仕事を紹介されることがあり、そこから政財界、華族らと関係が出来たようだ。
二代目八右衛門は名人と呼ばれ酒井家の財を築き、三代目八右衛門 は仕事をしなかったがプロデーサーとして大いに腕を振るった。
大正12年9月(1923)の震災を期に石屋の看板を降ろし出入りの棟梁3人にお得意さまを譲る。
その一人が野村保太郎で通称保泉、政界と華族関係を貰った。
野村家は香川県の豊島(てしま)の出身で東宮御所を造る際、ミカゲ石を刻める石工を募集した祭に上京、その後酒井石材店の仕事をするようになったと思われる。
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因みに関東大震災後に鉄筋コンクリートで本殿は昭和9年に再建されたが設計を手がけた中に伊藤忠太がいる。
この人は酒井八右衛門とも旧知の仲で狛犬に造詣が深い人であった。
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