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No.87〜 2012.12

石切籐兵衛の伝説〜神田明神

                神田明神(千代田区外神田2丁目)


石切藤兵衛神田明神・大山不動尊・成田山の三つの獅子山を造ったと云われている。
神田神社(千代田区外神田2
丁目)の獅子山は享保年間に造られたとされ、「板東三獅子」として有名だったという。

だが獅子山前の説明版では文久2年(1862)に両替商仲間によって納められたという。
資料などによ、れば石切藤兵衛の先祖は享保12年(1727)に下野(栃木)から神田仲町1丁目(外神田1丁目)に移住し石屋を営なんだ。
寛保2年(1742)に広小路の往来の妨げに成らない場所を石置き場として使う事を願い許可され、文政13年(1830)には本郷の弓町に住んでいた。


明治期の写真

神田明神、文政9年(1826)の社寺書き上げの「獅子山 武州下野石切藤兵衛作」、及び大山不動尊の文政13年に造られた獅子山(神奈川県伊勢原市大山325の獅子山荘に再建)を考慮すれば、獅子山は文政年間初期に造られたものと思われる。

では
文久の獅子山とは如何なるものなのか?
明治期の写真(上)では参道を挟んで一対の山が築かれ右に阿像、左に吽像と子獅子が配されている。
この獅子山が関東大震災で崩れたという。
では
石切藤兵衛の文政期の獅子山はどうかというとやはり安政2年(1855)に大地震があり崩れたのでしょう。
それを山だけ築き直して奉納したとすれば納得出来る。


3つ目の成田山については仁王門裏の石段の獅子山(嘉永3年築造)を指すと思われるが、あれは同じ名前の藤兵衛ではあるが「太刀売石工藤兵衛」であって「石切藤兵衛」ではない。
実は石切藤兵衛の別名が、神田神社によれば「油売藤兵衛」と云う。
太刀売りと油売り、藤兵衛と藤兵衛、似たような通り名と同じ名前に混同があったのかも知れない。



                                  (文・山田敏春、写真・阿由葉)